<連載第三回> 日本は「外から学ぶ力」で二度、世界を驚かせた。今後は、三度目が必要
はじめに:日米デジハブの源流を振り返る
今回のブログは「日米デジタルイノベーション&アドバンステクノロジーハブ(以下、日米デジハブ)」の第3回です。少し時間が空きましたので、まずはその源流を簡単に振り返っておきたいと思います。
~源流をたどる~
日米デジハブの起点は、1988年にレーガン大統領と竹下総理が設置した日米科学技術高級委員会(JHLC)にあります。科学技術のトップ同士が直接議論し、情報交換する場として画期的でしたが、その議論が大学や企業など現場に十分届かないという制約もありました。
この制約を補うため、2013年の第12回JHLC(ワシントン)後に、JHLCのメンバーに加え、日米の産学官が参加する公開フォーラムを開催したいという提案が米国務省からありました。当時、私は文部科学省参与として外務省と連携し、日本側の関係者との調整を担いました。米国務省とカーネギー平和財団が後援したこのフォーラムは大きな効果を生み、その後、2014年・2015年の東京での委員会後にも、外務省と文科省後援の公開フォーラムが開かれました。
しかし官主導では自由度に限界があり、急速に進む先端技術のスピードには対応しきれませんでした。そこで2015年、日米大学が中心となり、産学官のリーダーがボランティアで運営する完全民間主導の日米デジハブが誕生しました。ボランティア形式としたのは、巨額資金で西側の科学技術を囲い込もうとする中国とは異なり、日米で科学技術を共有し共に発展させる場をつくりたいという意思表示でもありました。
以後、多くの関係者の努力で日米デジハブは順調に回を重ね、コロナ期の中断を経て、2022年秋には米大学の呼びかけでミニ・デジハブをワシントンで開催。2023年は高崎のG7デジタル大臣会合に並行し開催し、2024年はOSU(オハイオ州立大学)、2025年は上智大学で開催、そして2026年には米パデュー大学で第10回が予定されています。
予想外の支援もありました。2024年の岸田総理訪米に際する日米首脳会談のファクトシートで、半導体・量子・AIを横断する日米協力の一角として、日米デジハブの取組が公式に明記されました。これも大きな節目となったと言えます。
- 一度目の学びの機会:黒船来航からの近代化へ
一度目の学びの機会はペリー提督の黒船来航がきっかけでした。記録によると、提督はフィルモア大統領からの国書だけでなく、蒸気機関車の模型、電信機器、最新科学の書物を携えて来日しました。これらについても黒船同様、驚きと警戒を受けましたが、蘭学者ら江戸の知識人たちはそれらを「学ぶ対象」と捉えました。また、幕府も長崎海軍伝習所を設置し、本格的な西洋技術導入に踏み込みました。その数十年後、日本は「外から学ぶ力」を発揮し、アジアで唯一の近代国家へ成長しました。
- 二度目の学び:戦後の統計・品質管理革命
第二次大戦後、日本は連合国軍の占領下に置かれ、総司令マッカーサー元帥のもとで民主化と再建が進められました。この時GHQ(連合軍最高司令官総司令部)は、日本にはまだ定着していなかった統計学、情報理論、オペレーションズ・リサーチ(OR)の専門家を呼び導入しました。その一人である統計学者デミングは、戦時中に米軍工場で使おうとした生産管理技術を日本人に説きました。これは彼の統計学をもとにしたものでしたが、未完成のものでした。
ただ、多くの日本人たちは、これが連合軍が勝利した一因と考え、日本でも学ぼうとしました。経団連は第二次大戦後に再編成されましたが、石川一郎経団連会長以下の経済界のリーダー、そして町工場の現場の監督や工員にまで広く浸透しました。当時、女子工員たちが統計学を学び、「カイゼン」への提案をしていました。日本人たちはこれを「押しつけられた外来技術」ではなく「自らの再出発のための知」として学び、発展させていきました。
- ケネディ大統領と佐藤総理が築いた「科学技術の基礎体制」
1960年代、日本の将来にかかわることで、日米にもう一つの重要な橋が架かりました。私は、これがその後の日本で多数のノーベル賞受賞者が出たきっかけとなったと思っています。
1961年に第35代米大統領に就任したケネディは、東洋の学術・文化を深く理解していたハーバード大学の東洋史の専門家ライシャワー教授を駐日大使に任命しました。アジアで唯一、高度成長段階に入った日本を、米国の学術・科学技術のパートナーとして位置づける戦略的な判断だったと言えます。
この時期に、ケネディ大統領・佐藤総理の間で、
- フルブライト交換留学の拡大
- 日本の若手研究者の米大学への派遣
- 先端科学(物理・化学・宇宙・統計)の導入
といった施策が進められ、これが戦後日本の科学技術立国の基礎となりました。実際、多くのノーベル賞科学者は何らかの形で1960〜70年代の制度の恩恵を受けています。残念ながらケネディは1963年に暗殺されましたが、彼を引き継いだジョンソン大統領とライシャワー大使のもとでこれらの根底づくりが進みました。
- レーガンと竹下の時代:「今度はアメリカが日本から学び始めた」
先に触れましたように、レーガン大統領と竹下総理の間でJHLCが設置されましたが、これは日本が学ぶだけでなく、米国にとっても日本から学ぶ時代の始まりでもありました。事実、1980年代、米国は深刻な危機感に包まれていました。半導体、カメラ、自動車など、あらゆる産業分野で日本にその競争力で圧倒されていたからです。第二次世界大戦で圧倒的な勝利をおさめたはずの日本に対しての強い警戒心がおき、それらは全米各地でさまざまな日本製品たたきにつながりました。それは産業だけでなく、研究開発でもそうでした。CIAの分析では「2000年までに23分野中21分野で日本が米国を凌駕する可能性」という報告も出されました。
ただ、米国は日本たたきだけを行ったのではありません。日本の成功を学ぶため、ホワイトハウス競争力委員会、議会調査、全米工学アカデミー、商務省研究会などを立ち上げ、その中でもJHLCは最重要の場となりました。
この過程で、米国は重要な事実に気づきます。それは日本の強さの源流には、戦後デミングが教えた品質管理等があったということです。その後、米国はこれらを学び直し、行政・政治・ITシステムへと実装をしはじめ、情報理論+統計+コンピュータを統合してデジタル時代の基盤をつくり始めました。その一つに、2004年にスウェーデンのウメオ大学のストルターマン教授によって提唱されたDX(デジタルトランスフォーメーション)の概念があります。個々のデジタル技術は様々なメリットを使う側にもたらしますが、最大のものは社会全体がこれにより新たな体制に変化する(トランスフォーメーション)という点です。しかし、この概念も「デジタル」という言葉自体も、長い間日本には十分に入ってきませんでした。この段階の日本人は自らの学びのすばらしさを放棄し、一方、米国人は日本から一部学び、そのもとに新たな世界づくりを強く進めました。
- 日本が「学ぶ力」を取り戻す挑戦:安倍政権とCETs、そしてAIへ
日本はバブルの後、長いトンネルに入ったとよく言われています。これについてノーベル経済学者クルッグマンは、日本人の生産性は米国人には劣るが西欧や他の国々を上回るとし、生産性の停滞が本格化したのは2000年代後半だと指摘しています。この点については第4回以降で取り上げますが、間違いなく、日本がDXという大きな流れに気づかなかったことが一因にあります。
これに気づき、日本が再び「外から学ぶ力」を取り戻そうと動き出したのは、2012年末の第二次安倍政権です。安倍政権は日本を取り戻すために経済政策を重視したことがよく知られていますが、同時に、強い経済の基盤となる科学技術や教育について、外から学ぶ体制の再構築を目指しました。その一つが政権発足直後のワシントンでのJHLCへの積極的な対応であり、また、米国務省が提案した公開フォーラムへの日本側の積極的な対応です。これを源流とする日米デジハブは、日米両国の大学・産業界・政府がそれぞれ学ぶ場となりました。間違いなく、日本だけでなく、米国も学ぶ場です。
では具体的にどのようなテーマで、どうやって学ぶかについては第4回に譲ります。

